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「あこがれのスプリンター」 power×大野直志氏

私が大学で自転車競技を始めて間もない頃、大学のクラブボックスにツールド北海道のパンフレットがありました。写真で綴られたカラーのページを何気なくぱらり、と、捲っても捲っても同じ人が出て来るのです。
それが甘いマスクの大野選手と私の出会いでした。一方的な出会いです。
以後、私も学生ながら何度か同じレースを走らせて頂く事がありましたが、横を走ることすら無かったと思います。それほどかけ離れていたあこがれの存在、大野選手にドーンとイタンビューした2002秋!



power

「大野さん、こんにちは。今日はどうぞよろしくお願いします」
大野

「はい、どうぞよろしくお願いします」
power

「唐突なのですが、自転車は面白いですか」
大野

「とても面白いと思います」
power

「では自転車はクールですか」
大野

「もちろんです」
power

「うーん!そうこなくては!それで、大野さんに今回インタビューさせて頂く上で、初めまして、と言うのがふさわしいのかもしれませんが、実は数年前のツール・ド・北海道にて大野さんと少し話をしたのですが覚えておられますでしょうか?」
大野

「97年の北海道ですね。たぶん札幌のグリーンホテル、かどこかのステージ終了後でしょうか?」
power

「最終ステージ終了後でした」
大野

「やっぱり、記念写真くらい撮っておけば良かったですね。どこかでとった記憶はありますが・・・現在のようにデジカメがあれば・・・」
power

「いえいえ、思い出は心のフィルムに焼き付けて置くのが・・・って忘れておられたら焼き付いてないじゃないですか!」
大野

「はは」
power

「つかみはオッケイですね!では気を取り直して、今日はどうぞよろしくお願い致します」
大野
「こちらこそ」
power
「まず、大野さんのこれまでの経歴を教えてもらえないでしょうか」
大野
「1967年生、青森県十和田市出身です。青森県立十和田工業高校にて自転車競技部。東北学院大学に進学し体育会自転車競技部。89年日本鋪道株式会社のレーシングクラブに所属、93年には青森県立八戸工業高校コーチをしながらラバネロチームで走り、01年に八戸工業高校の自転車競技部の監督となりました」
power
「今現在は?」
大野
「青森県八戸市で高校の教師をしています」
power
「八戸!数年前に八戸で泊まった民宿、一泊五千円だったのですが、今日まで宿泊した宿のうち、最も魚料理がおいしかったです。最初から最後まで魚づくしでした。魚を浴びるほど食べました。そしておばちゃんの言っていることがわかりませんでした。青森は言葉の訛りも印象的でした。青森弁の特徴は何でしょうか?」
大野
「そうですね、青森というと津軽弁が有名です。八戸は南部弁でイントネーションがちょっと高いですが、私は真似できません。標準語に近いですね」
power
「そうなんですか。青森の中でも随分と異なる方言があるんですね。さて、そろそろ自転車の話題に移行したいと思います。よろしいでしょうか?」
大野
「どうぞ!」
power
「では、大野さんが自転車に乗り始めたのはいつですか?」
大野
「よく覚えていません」
power
「ドテッ。まあ、普通はそうですね」
大野
「たぶん小学校低学年ですね」
power
「だとすると、少し遅目かもしれないですね。ロードレースに初めて参加されたのはいつでしたか?」
大野
「高校2年生の県ロードレースで、とにかくきつかった。そのころは体重も45kgくらいでしたか、とても運動選手に見えない体格でしたね」
power
「高校2年生で45kgというとかなり津軽、いえ、身軽ですね。失礼しました。で、成績はどうでしたか?」
大野
「完走したかどうか、覚えていないんです」
power
「大切な思い出は霧の向こうへ・・・。という感じでしょうか?」
大野
「と言うか、本当に覚えていないんですよ。どうしてなのでしょう」
power
「どうしてなのでしょう。それにしても、そのきつかったレースを皮切りにメキメキと強くなって行かれたわけですが、大野さんはトラック競技よりもロードが中心だったのでしょうか?イメージ的にそうなのですが」
大野
「自分はロード中心でした。なぜか89年までの国体等での短距離種目やポイントレースの成績を評価されて、90年の日本開催の世界戦前の合宿から中距離班に入れられたのですが、自分の練習スタイルと違ったので、長距離チームに率先して参加したりしていました。バンク練習はほとんどしませんでした。」
power
「なるほど。しかしロード選手としても、圧倒的な強さを誇るスプリンターでいらっしゃったわけですよね」
大野
「自分はスプリンターとは思っていなかったんですよ」
power
「何かスプリンターであると認識する出来事があったのですか?」
大野
「87年の沖縄国体の時です。希望種目はポイントレースでしたが、当時の監督裁量で500m速度にエントリーされました。初めて走る全国大会しかも短距離種目の予選は、精神的にかなりのプレッシャーがかかりました。しかしスタートから4番手で最後の3コーナーに入り、前の選手を抜きにかかったとき、相手の肘が当たり、頭に来たので強引にまくって、予選通過を確信して4コーナーから流してゴールしました。記録を見てみると、これが国体成年新記録でした。決勝では残念ながら3位でしたが・・・・・」
power
「そうなんですか」
大野
「そうなんです」
power
「しかし、どんどん強くなったんですよね、飛ぶ鳥を落とす勢いと言いますか」
大野
「ですが始めて間もない頃は、非常に弱い選手だったんですよ」
power 
「うーん。にわかには信じがたい話ですね」

ポイントレースでも輝かしい成績の大野氏

大野
「いや、実際基礎体力すらない状態で、レースに出れば負けて、完走が精一杯といったものでした。しかし、高校3年生の時、レースで初入賞してからは、練習が面白くなってしまい、毎日の練習が楽しい日々が続きとても充実した1年でした」
power
「興味深いですね。では本当に高校ではじめの1年間は嫌々だったんですね」
大野
「そうです。結局私の場合、あまりにも弱すぎたので、負けた時の悔しさよりも、もっと強くなって勝ちたいと思う気持ちがとても強かったのです」
power
「どの向きにせよ、原点がどこにあるにせよ、強いベクトルを自分の中に持っているのは大切なんですね」
大野
「その後の大学4年間も同じで、一戦一戦全力で頑張ってきました。駄目だったレースでは何が駄目だったのかをよく考え、走り方も変わっていきました」
power
「自分の弱さを知ることから来る克服心、向上心が大野さんをここまで強くさせたのでしょうか。ですが、順風満帆とは行かずに少しは失敗もあったのでしょうか?」
大野
「それは勿論あります。第2回の北海道を走った時、1日2レースのステージがありました。2レース目の前に食事をみんなとっていましたが、食欲がなかったので軽く済ませました。今考えると基本的な事が解らなかったのですね。レースの後半、当時最強のロードスプリンターと言われていたBサイクルのSさんを含む7人ほどの逃げが決まりましたが、あと20kmを切ってからハンガーノックになってしまい、気合いでゴールまで辿り着きました。この時ほど、きつく感じたことはなく、ゴールスプリントどころではなかった自分の走りとレースに対する準備不足に気づき、食事の摂取に関してシビアになるようになりました」
power
「失敗から学び続けて来られたんですね」
大野
「逆に窮地に陥ったときに、勝ったときはとてもうれしいものです。レースをたくさん経験してきましたが、これはすごいと見ている人に熱さがつたわるレースが出来ればと心がけていました。特にタイムレース系は、あまり得意ではなかったので、こうしたレースが出来た時は、次へのレースへの意欲に繋がっていきましたね」
power
「そんな中で、印象に残っている試合は何でしょうか」
大野
「94年のツール・ド・北海道ですね。他にも沢山ありますが、練習で培った力を発揮出来たときのレースはどれも印象に残っています」
power
「確かにあのツール・ド・北海道の勝ち方は伝説以外の何でもありませんね。もし伝説でなければレジェンドです!ってそれも伝説でした。失礼しました。さて、面白いことはこれの程度にしておいて、現時点から競技生活を振り返ってみて、不足していたと感じるような点はありますか」
大野
「やはり、実業団で走っていた時、金銭的にも時間的にもいろいろチャレンジが来ましたが、今から考えると、自転車以外でもっといろんな事が出来たのではと思いました。セミプロ状態であった4年間は、自転車中心の生活でしたが。93年に転職して普通の仕事をするようになってからは、時間の大切さを強く感じました」
power
「自転車競技は時間が勝負の面もありますしね。時間が有り余っている人が強くなるのは当然なんですよね」
大野
「全くです。仕事をしながら競技を続けていく難しさをもう少し早く知っていたら、もう少し何か出来たような気がします」
power
「どうして引退しようと決意されたのですか」
大野
「20代後半になり、これからの自分のについてよく考え、このまま自転車を続けてもプロは現実的ではないし、今の自転車競技のすべてをどのように活かしたらよいか考え、当時の所属県のレベルダウンが大きな問題になっていました。こうした状況を何とかしたいと思い、高校生の指導が重要と考えるようになりました。実際に自分も競技をしていましたが、指導するということは、自分中心であった選手時代とは、全く逆で選手中心に考えていかなければなりません。チームも同じで監督がしっかりチーム運営をしないと勝てないと強く考えました。実業団からの転職先が教育職であった事もあり、まだ走れる力はありましたが、将来の選手育成を考え、ひとつの区切りとして97年のシーズン終了で引退をしました」
power
「走れる力があるのに引退された、という点がキーポイントだと思います。今も少しは乗っておられるのでしょうか?」
大野
「最近、体重が増えてしまったので、時々乗っていますよ」
power
「以前みたく食べたりしているとどうしても体重が増えてしまうんですよね・・・。私も実感中です。さてさて、今や指導の立場におられるわけですが、何を教えておられますか」
大野
「職場では社会を教えていますが、部活では競技力向上の手段を教えています」
power
「大野さんに是非教えてもらいたいです。いや、私の場合は教えてもらいたかった、でしょうか?子供達に教育をする際に、これまでの大野さんの経験をどのように生かされておられますか?」
大野
自転車ばかり優秀でも、いつか行き詰まってしまいます。自転車以外の一見関係のないようなことが競技に活かされる場合が多くあります。そうした部分をわかってもらえるように指導していく事が大切だと思います。自分が強くなるまでとても時間がかかってしまいましたが、こうした時間を短くすることの手助けができればいいと考えています」
power
「ますます教わりたくなりました。しかしそれにしても自転車競技はきついスポーツですよね」
大野
「確かにしんどいですが、好きな競技をやっていくので苦にはなりません。しかし、毎日の練習で休むことは簡単ですが、勝つために練習内容を追求していくことが難しいと思います」
power
「勝つための追求、と言う言葉を仰いましたが、何度も勝利を経験してこられた大野さんから見て、勝つというのは何を意味しますか?」
大野
「自分の練習の成果をみる、同時に強さをみる度合いになると思います」
power
「つまり、勝利とは通過点であり、ゴールでは無いんですね!むむー。そんな自転車競技の魅力はどこにあると感じておられますか?」
大野
「かっこいいユニフォームで、最新の機材を使い風を切って走り、自分の力次第で良かったり悪かったりする点だと思いますが・・・・・うまく言えませんが、見ているだけでもかっこいいからですからね」
power
「どの兎にも角にもバチグンにクールだと、そういうことですね」
大野
「間違いありません」
power
「矢張り・・・。では、少し一般的な内容になるのですが、教育の立場に立っておられる大野さんですが、日本の自転車文化、自転車競技の問題点は何でしょうか」
大野
「日本では、自転車競技といえばケイリンと返ってきますが、このイメージが強すぎるのかもしれません。やはり自転車競技の認知度を上げ、ケイリンはその中の一つの競技であることを知ってもらう事が大切だと思います」
power
「競技の知名度を上げる。基本的な事ですが最も難しい事ですよね。少し大きな目で見て、競技のみならず、日本でもっと自転車が盛り上がるためには何が必要だとお考えですか?」
大野
「環境整備でしょうか。昔は交通量も少なく、自転車の活躍の場がたくさんありましたが、車社会になった現状では、サイクリングロードなどを町中に作る事も出来ないし、町の中心部でのレースも交通状態からとても難しいですが、こうした問題を解決してツールみたいなレースを開催できれば、世の中の見方が変わってくるのでないでしょうか」
power
「大きなレースを開催することによって自転車の知名度を上げる、というのは確かに効果的かも知れませんね。さて、そろそろ終盤ですが、大野さんにはお子さんが3人もいらっしゃるそうですね。先々は自転車選手を目指されるのでしょうか?」
大野
「うちは女の子ばかりなので、それはないです」
power
「ドテ。それは失礼しましたー。それでは欠かすことの出来ない質問をさせて貰います!良いですか?」
大野
「いいですよ!」
power
「好きな果物は何ですか?」
大野
「あまり果物は好きではありません」
power
「バタッ!それでもめげずにあえて挙げますと?」
大野
「バナナですかね」
power
「そうですか。私は桃です。ですからバーテープはピンクが好きです」
大野
「そうですか」
power
「そうです。大野さんの好きな言葉は何ですか?」
大野
「『最強、最速、最新』です」
power
「ワオ!超かっこいいですね!今日はどうもありがとうございました!」
大野
「こちらこそ」
power
「最後に一つ忘れていました。スプリントで勝つ秘訣を内緒で教えてもらえないでしょうか」
大野
「『絶対勝つ!』と思う強い気持ちと、自分の力をどのように使えばいいのかを冷静に判断する能力ですね」
power
「ありがとうございます。今日はとても楽しかったです。ありがとうございました!」
大野
「ありがとうございました!」


超強い選手、あこがれの選手が一体何を考えておられるのか知りたく思っていたのであるが、大野さんが最強、最速、最新が好きだと言われたときに、妙に嬉しくなって頷いてしまった。やはり自転車に乗る者、競技をする者、一番前を見ているのですね! そして、氏ほどまでも勝ち続けた選手にとっても自転車は、バチグンのおもしろさ、クールさを失わないのであった。やっぱり・・・・自転車おもしろすぎ! 爽やかにインタビューに応じて下さった大野さんに感謝したく思います。

power(2002/10/30)


さて、ここで冒頭にて私が触れた、大野さんが全てのステージ(チームTT除く)で勝利を飾った1994年のツールド北海道のレポートを戴きましたので、掲載致します。 どうすればこのような勝ち方が出来るのか、そして私が何よりも知りたかった「心理状態」はどのようなものなのかが綴られており、驚異的な内容です。

「1994年ツール・ド・北海道レポート」 大野直志


1994年、日本最大のステージロードレースである第8回ツール・ド・北海道が、9月11日、道南地区を中心に、全5ステージ、参加:20チーム、使用車両76台、バス3台、一般道路使用距離450kmという規模で開催された。このレースに出場するには、国立大学3チーム、私立大学上位6チーム、実業団6チームのどれかに属していなければならず、各予選大会を勝ち抜いて出場権利を獲得しなければならない大会である。
93年に転職し、ツール・ド・北海道に出場できなかったが、94年はクラブチームである、A・F・Rに所属して出場した。一年ぶりに出場する北海道で自分の実力でどこまでやれるのか、とても不安であった。


9月12日

第一ステージは大野町での1周5.2kmを12周するクリテリウムである。このステージは高低差がかなりあり、登板カとスピードが必要なコースである。

序盤からM、N鋪、Sが積極的にアタックするものの、集団のスピードが90km以上出る下りがあり、逃げが決まらなかった。終盤の11周目にN鋪の動きが活発になったが、29名のゴールスプリントでは、下りをうまく利用して最終コーナーで先頭付近をキープし、ゴール前でスピードの伸びが鈍った瞬間に、一気に飛び出しトップでゴールを駆け抜けた。

9月13日

第2ステージは函館市から江差町までの175kmで争われた。

序盤からかなりの追い風でアタックが頻繁にあったがすぐ吸収され、A選手などの単独の逃げも不発に終わり、江差マリーナ公園へのコーナーを立ち上がり開陽丸と共に大勢の観衆が待ち受けるゴール地点へなだれ込む。立ち上がり3番手から先行策を取り横断幕を目指してスパート。ゴールだと思った横断幕は、「ようこそ江差町」。ゴールの幕はさらに前にあり、驚いたが、こうなったら逃げ切るしかない!段階的に加速していき、最後の加速分を残しながら、後続を振り切ってゴールに飛び込んだ。この時、先頭付近で3名の落車があり、M選手は鎖骨骨折の重傷でリタイヤした。レース後、明日から本当の意味でトップを守る責務が課せられ不安にかられていた。2連勝していても後続の1分以内に25人という状態であった。

9月14日

第3ステージは江差から瀬棚までの121kmで序盤から9名の逃げがあり、この中にチームメイトのS川が入っていたが、I島を中心にアシスト達で追い上げた。しかし、今大会最大の難所、雲石峠でアシスト全員が脱落してしまう。前日まで自分が山岳賞トップであったが、E選手(S)にポイントされ、雲石峠が無得点だった為、E選手がキング・オブ・マウンテンとなる。雲石峠を越え、残り60km地点で23名の先頭集団が形成されたが、アシストなしの苦しい展開になった。今金町のホット・スポットをトップで通過、5秒のボーナスタイムを稼ぎ瀬棚町海洋センター前のフィニッシュ地点へ、MチームはTを勝たせる作戦でA、Mが先頭を引いて他チームの逃げを潰している。他のチームの動きが活発になったが、自分一人では対応しきれないので、流れにまかせてゴールを目指した。最終コーナーをMチームが先頭で立ち上がると、早い地点でTがスパートをかけた。これに各チーム対応してスプリント開始。7番手付近からの仕掛けたが、行き場を失ってしまった。もう終わったと思ったとき200M手前、左側1車分のスペースが空いていった。そこから一気に先頭に躍り出てゴールを駆け抜け、区間3連勝を果たした。しかし、3日間守り続けているリーダージャージにかかるプレッシャーはかなりで、経験した人だけしか分からないものがあり、これまでにない不安に襲われた。

9月15日

第4ステージは距離30.3kmのチームタイムトライアルで、今金町から北檜山町までの2つの峠を越えるコースである。このコースでは、ノーマルバイクかファニーバイクのどちらで行くか迷いましたが、試走が出来なかった事と、登りが多いという事で、ノーマルバイクにDHバーの組み合わせで行くことに決めた。チームは最初の山をイーブンベースでクリアし、2つ目の登りで2人が離れてしまった。しかし、下りの人数的不利を考え、1人追い付かせて4人でゴールを目指したが、1人少ないハンデが響き、4位でゴールした。個人総合も11秒差まで詰め寄られたが、何とか守りきった。

9月16日

最終ステージのスタート前、不安と緊張は最高潮に達していた。この日の予報で、後半は雨がかなり強く降るのが予想された。このステージは景勝に恵まれた追分ソーランラインを北上、泊村に至る118km。高低差70mのフラットなコースでスタートから各チームの思惑が入り乱れ少人数の集団が形成された。雨が降ってくると集団は吸収され再び大集団のまま進んだ。自分のチームは個人総合優勝だけを狙っているのに対して、他チームはN鋪の団体優勝を阻止すべく簡単に逃げを許さない。この関係が自分にとって有利に進んでいった。中盤から降ってきた雨により、レース展開は予断を許さず、細かなアタックが続いた。44.3km地点と60.8km地点のホットスポットを2位、3位で通過して3秒のボーナスタイムを獲得。2位のS野(N鋪)との差を少し広げることが出来た。残り40km地点を通過後、トンネル通過中にアタックが決まり23名の集団が形成される。各チーム2~3人のメンバーになり逃げが決まるが、ここで信じられないようなミスをしてしまう。現在形成されている集団のことを聞いたときに「逃げている」と言われ、集団の先に何人か逃げていると勘違いしてしまった。トンネル区間が多くあり、水しぶきで前方が見えにくい状況が続いたので、そう思いこんでしまい、幻の先頭集団を目指して走っていた。もちろん積極的に先頭を引く必要がないのに引いていた。

あと2kmを切り、追い付けないと勝手に締め、最後のゴールだけでも先頭で入っろうと思った。北電泊発電所前のゴール前、300mでN島選手の先行についていき、200mを残して早すぎる段階から勝負に出た。あと50mで2位のS野選手が捲ってきたが、そのまま力で押し切ってゴールを駆け抜けた。やられたとがっくりしているところに、周りからおめでとうと声を掛けられ、我に返りよく考えてみると、自分より先頭に走っている人間はいるはずがなく、極度の緊張と不安によって普通では考えられないような状態に陥っていた。その証拠に個人総合優勝を区間優勝で飾っていれば両手をあげてゴールしているが、手は上げていなかったのだ。そして、2位には11秒差のS野選手が入った。もしS野選手が優勝して2位であったら逆転の可能性があった。このツール・ド・北海道で、個人総合優勝を果たした事は運もあったが、自分の成績を犠牲にしてまで、アシストしてくれたチームのみんながいてくれたおかげであると強く謝している。


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